労働運動の進路をめぐって

労働戦線の統一について

労働運動研究所 松江 澄

 

労働運動研究 19893月 No.233

 

 

はじめに―何が問題なのか

労戦統一問題とりわけ戦闘的階級的ナショナル・センターについての討論が始まってからの労研をはじめとした諸論文を読み返して見ると、全民労連に反対して別のナショナル・センターをつくろうという意見にはほぼ共通の前提がある。その前提とはいわゆる「岩井提言」あるいは「岩井構想」と呼ばれるものである。それは一昨年の一〇月集会に提起された方針の重要な骨子とも変りはない。

それを整理して見ると二つの重要な命題がある。その一つは、日本には戦前戦後を通じて二つの路線の対立があり、労資協調路線と階級的戦闘的路線である。この二つの路線の対立は不可避である、と。そこでこれを基準にして現状分析が行なわれる。すなわち現状では労資協調路線としての全民労連による労戦統一と、統一労組懇だけである。ところが日共の統一労組懇だけでは、とうてい階級的戦闘的な組織や集団をすべて結集することはできない、と分析する。もう一つの命題は、共産党は統一労組懇という根拠地をもっているが、社会党左派と無党派左派は根拠地をもっていない。そこで是非とも根拠地が必要である。ここから社会党左派、無党派左派の根拠地として階級的戦闘的路線のナショナル・センターが必要であるという結論が導き出される。

この二つは、問題としては一応別なものである。一つは労働組合運動の対立と闘争の問題であり、もう一つは組合と政党の関係についての問題である。ところがこの二つの論拠は深くかかわっている。政党と労働組合の関係と、労働組合運動の性格とあり方および戦線統一についての考え方と方針は切り離すことができない。日本労働組合運動史は戦前戦後を通じて労働組合と階級政党との関係史でもある。それは日本労働組合運動にとって重要な問題であるばかりでなく、国際労働運動にとっても避けることのできない試練であった。それが最も集中的には、共産党と労働組合、共産党と労戦統一との関係として展開されてきたことは広く知られているところである。日本の場合には戦前から今日まで、その課題はそのままにひきつがれている。

なおこうした前提となる命題の問題以外にも、労働組合運動現状分析の重要なキー概念とされている「会社派労働組合」論あるいは「会社派労働運動」論というものがある。また今日の全民労連と資本連合との関係を「先行的危機管理体制」としてのネォ・コーポラティズムの一環(新協調主義国家)だととらえる論もある。こうした諸問題については枚数の限界もあるので他日にゆずり、今回は直接労戦統一問題についてのみ論じることにした。

しかし、今日の労戦統一が労働者にとってだけでなく、資本と国家にとって重要な意味をもっていることは云うまでもない。それどころか私は今度の労戦統一が資本連合の要請と照応しながら進められたと思っているし、技術革新と産業構造の改革による諸変化を反映しつつもその意味では「右寄り再編成」だと思っている。そうしてまた資本主義(帝国主義)のもとでの労戦統一の闘いが、結果としてしぼしば「右寄り再編成」になることも歴史的な事実である。だが重要な問題は、分裂と統一の全過程を通じて階級政党と最も戦闘的な階級的諸集団が労働組合運動の階級的な再統一をめざして能動的に統一運動を追求したのか、それとも「右寄り再編成」に受動的に対抗する「左寄り再編成」にとどまったのか、ということである。私はそれを戦前、戦後の運動史から実証的に再追求しようと思う。

 

一、自然発生的統一から目的意識的対立へ

 

今日多くの民間企業では、一方で昇進のさまざまなポストが準備されるとともに、他方では子会社・系列会社への出向・転籍が待ちうけるなかで、ノルマの測定し易い販売責任が全職場にふり分けられ、激しい競争のなかで選別が行なわれる。それは出世競争と生き残り競争のすさまじい戦場である。職場はもはや団結と連帯の場ではなく、冷たい対立と競争の場に転化した。これは民間から次第に官公の職場にも迫ろうとしている。本来は労働者の仲間競争を防止するためにつくられたはずの労働組合がその内実を奪われて空洞化されようとしている。

歴史的には資本主義の発生発展のなかから生れた労働組合が仲間の競争を防ぐためにつくられ、同じ目的から産業別、地域別統一次いでナショナル・センターへとその統一は進んだ。それは労働組合とその運動の原点である。マルクスは「労働組合―その過去、現在、未来」(一八

六六年)で鮮やかに指摘する。「労働者がわのもちあわせる唯一の社会的な力は彼等が多数なことである。

しかし多数の力は不一致によって分散させられる。労働者の分散状態は、まぬかれない労働者の仲間同士の競争によってつくりだされ維持される。労働組合は、はじめは、資本の専制的な命令とたたかい、この仲間同士の競争を阻止するかせめて抑制し、そうすることにより、せめてたんなる奴隷の地位よりましなものに労働者をひきあげるような契約条件をかちとろうとする労働者の自然的(自然発生的)な企てから発生した。」

個体発生は系統発生をくり返す。われわれは戦後初めから今日まで、多くの労働組合組織化の闘いのなかでいつでもこうした自然発生的な原点に出会ってきた。いやそれはいまもこれからも続くであろう。

だがマルクスは、その「元来の目的」だけでなく「その未来」の任務として「今後労働組合は、労働者階級の完全な解放という偉大な利益のために、労働者階級の組織化の焦点として意識的に活動」し、「この目標に向ってすすむあらゆる社会的、政治的運動を支持し、自分を全階級の行動的闘士かつ代表者」とみなすことを待望した。ここには、その後それこそを唯一の目的と任務にして労働組合運動から分岐した階級的革命的な党は未だ無く、マルクスは労働者階級の最も基礎的で最も大衆的な労働組合にその期待を托したのだった。第一インターも第ニインターも政党と労働組合をいっしょに組織していた。革命闘争と階級闘争はまだ未分化であった。しかし歴史がその任務と組織を明らかにした。

資本主義の全面的な発展は労働組合の全般的な発展をうながした。その発展はいくつかの先進資本主義国では産業別統一センターから全国的なナショナル・センターの形成へと向うが、同時に労働組合運動から分岐した階級的な政党が誕生し、帝国主義時代の階級矛盾が激化するなかで社会民主主義党のなかから革命的な左派が分岐して共産主義党を形成した。またある国では共産主義党の形成が先行して社会民主主義党が生まれたところもあった。それは労働者階級の運動が今までの自然発生性から進んで目的意識性を獲得したことを示すものであった。しかしロシアや日本のように、一方では急速に資本主義が発展しながら他方では古い封建的な基礎を残し、ツァー制や天皇制のような前近代的な政治構造を温存している国々では、労働組合の結成すら圧迫され、その活動をきびしく監視するなど労働組合運動の発展が国家権力によって抑圧されることになった。そこでは労働者階級の解放をめざす共産主義党、社会主義党の形成ももちろん常にきびしい監視のもとにあり、労働組合運動にかくれて活動を準備するあらゆる革命的な企てはいつでも弾圧される危険にさらされていた。

ロシアでは労働組合運動それ自体のなかからではなく、その「外」から社会民主主義(共産主義)的意識をもちこむための革命党の形成と任務がレーニン「何を為すべきか」(一九〇二年)によって基礎づけられた。だがやがて帝国主義時代に突入するなかで情勢と条件は党と労働組合との間に新しい関係を要求した。レーニンは「労働組合の中立性」(一九〇八年)で次のように指摘する。闘争が未発達で組合にたいするブルジョアジーの系統的な働きかけのなかった時代には、プロレタリア闘争の最初の基盤をひろげる手段として組合の中立性を主張してもよかった。だが現在のように階級矛盾が激化している段階では国際社会民主主義(共産主義)運動の見地から組合の中立性を主張することは、もうまったくその時機ではない。

「組合の党派性はもっぱら組合内部の社会民主主義の活動によってのみ達成されなければならず、社会民主主義者(共産主義老)は組合のなかに結束の固い細胞を組織しなければならないこと、もし合法的な組合が不可能なら、非合法な組合をつくるべきである。」と。

自然発生的な統一は目的意識的な対立にとってかわられた。しかし、ここには資本主義の全般的な発展がおくれ、労働組合の組織化と党の活動が抑圧されたロシアの現実があり、それはまた労働組合と党とを明確に区別しながらもなお社会民主主義(共産主義)運動の発展と指導権を急ぐことによって、後年の「赤色労働組合インターナショナル」(プロフィンテルン)運動の遠い萌芽となった。日本も例外ではなかった。

 

二、目的意識的対立から目的意識的統一へ

 

先進資本主義では資本蓄積の進行と市民社会の成熟という経済的社会的条件は労資関係の近代化をもたらし、近代的自主的労働組合の発生と発展をうながしたが、日本の場合には、けっしてそうではなかった。労資関係の近代化は停滞し、極度に劣悪な労働条件の固定化と自主的労働運動にたいする一貫した抑圧とが逆に日本資本主義の発展にとって重要な基礎的条件となっていた。

一九世紀の終りから二〇世紀の初めにかけて先行的な労働組合運動の発生と先駆的な活動の発展があったとはいえ、日本で始めて大衆的な労働組合が成立したのは、労資協調主義の立場で労働老の地位改善をめざす親睦団体であった友愛会が端緒となった。その後第一次大戦を契機に、鉄鋼、機械、造船などの重化学工業の発展がもたらした近代的男子労働者の急増によって労働運動の本格的発展の基礎的条件が成熟するなかで、大日本労働総同盟友愛会(一九一九年)ついで日本労働総同盟(一九二一年)に発展した。その翌年には労働組合の総連合運動が起ったが、無政府主義と共産主義のいわゆる「アナ・ボル論争」が起きて対立抗争から成功しなかった。その後、総同盟内部では社会民主主義者と共産主義者の対立が激化してついに分裂し、左派は日本労働組合評議会(評議会)を結成した。(一九二五年=大正十四年)

ところが同じこの年、治安維持法と普通選挙法が抱き合せで公布され、選挙をめざして左派の労働農民党(労農党)右派の社会民衆党(社民党)中間派の日本労農党(日労党)の三派が結成された。総同盟はそれぞれの支持政党をめぐって第二次(一九二六年)第三次(一九二九年)の分裂をくり返し、それぞれ中間派の日本労働組合同盟、労働組合全国同盟が結成されたが、一九三〇年(昭和五年)両組合は合同して全国労働組合同盟(全労)となった。

だが当時の情勢下で総同盟とともにいっそう右翼化した。

一方、評議会は日本共産党の指導のもとにますます左翼化し、双方とも政党=労組の系列化によって対立抗争は深まった。しかし評議会は「三・一五」「四・一六」で共産党とともに弾圧され、解散を命ぜられたが直ちに日本労働組合全国協議会(全協)として再建され(一九二八年)プロフィンテルン(赤色労働組合イソターナショナル)に加盟した。しかし全協は産業別戦線統一をめざしながら弾圧のために殆んど非合法活動を余儀なくされ、戦闘的ではあったが武装闘争などセクト主義、極左主義によって運動が大衆化せず、そのうえ分派の刷新同盟が生れて双方ともプロフィンテルンから批判されて自己批判したが、あいつぐ弾圧のために}九三四年(昭和九年)頃には事実上壊滅状態に陥った。

一九三一年には旧評議会合法派と新労農党支持派によって非合法の全協にたいする合法左翼組合として日本労働組合総評議会(総評議会)が組織された。一九三二年には反共反ファシズムの旗印のもとに大右翼労戦統一が提唱されるなかで合法左翼の戦線統一が進められ、一九三四年には日本労働組合全国評議会(全評)が結成されたが三七年には結社禁止となった。一九三八年(昭和十→二年)以降は産業報国(産報)運動が政府の指導のもとに展開されるとともに労働組合はあいついで解散を余儀なくされ、右派指導者の一部は自ら産報運動の指導者となった。こうして戦前の運動は大多数の労働者を組織することができず、一部の先進的労働者による階級闘争として常に革命運動、政治闘争と結びついて対立と抗争をくり返し、ついに政府の弾圧によって壊滅的打撃を受けた。

しかしこの間、コミンテルン第七回大会以前にも反ファシズム闘争のために労働者の統一をめざす積極的な活動もあった。犬丸義一「日本人民戦線運動史」(青木書店)は、日本共産党東京市委員会の機関紙「赤旗」東京版第二号(一九三三・四・三〇付)の「戦争と白テロとファシズムに反対して、全労働者は共同闘争に起て!ファシズム独裁の新たなる進展を前にして」といアピールを指摘する。この文章の中では「改良主義組合との最低限要求綱領の作成の下に共同闘争を提唱し、全労働者大衆を下からの統一戦線によって改良主義者の右翼的駆引を暴露しつつ同時的に上からの統一戦線によって闘争に引き入れねばならぬ。」(傍点松江)と重要な提起をしている。「下からの統一戦線」とはその組合の職場の労働者に働きかけ下からダラ幹を暴露して孤立させることであり、「上からの統一戦線」とは改良主義労組幹部と切実な最低限要求で組合レベルの共同闘争を発展させることである。ここでは「上からの統一戦線」を否定するセクト主義からの脱却が追求されている。

ところが同書の資料によると、当時の日共中央委員会は「赤旗」で、「天皇制に対する真向からの闘争に逃げを打って、この闘争を幻想的なファシズム独裁にたいする闘争に置きかえんとする左翼日和見主義」と批判している。これは当時の運動の重要な基礎となった「三ニテーゼ」が、迫りくるファシズムの危機について何一つふれず帝国主義戦争と天皇制に反対することを強調し、とくに社会民主主義を「社会ファシズム」と規定してその裏切りとの闘いを強調することなどが、統一戦線の発展に重大な制約となっていることを示している。それは社会民主主義を主要打撃の対象と規定するスターリンの「社会ファシズム論」であった。それはとくに日本のような資本主義の独特な発展のなかでは弾圧のきびしさと結びついて強いセクト主義をはぐくみ、統一戦綿騨の発展に重大な障害となった。

こうした日本共産党のセクト主義は、一九三五年コミソテルン第七回大会がスターリンの執拗な反対を押し切って、反ファシズム人民戦線戦術とその中心的な推進部隊として労働組合運動の統一戦線を提起し、広く全世界に呼びかけたのちも変らなかった。反ファシズム人民戦線については中井正一らの「土曜評論」など知識人や学生による運動の転換と紹介などが試みられたが、労働組合運動のなかではきわめて困難であった。

結局、きびしい弾圧のもとで中心たるべき日共の活動が強く制約されたことは確かに重要な客観的条件ではあるが、そういう情勢と条件を主体的にとらえた柔軟な戦術とりわけ統一運動が是非とも必要なときに、逆に甚しいセクト主義に陥ったことの総括はきわめて重要な課題であった。しかし、この重要なときすでに獄中にあって反ファシズム人民戦線運動の経験を全くもたなかった中心的幹部が、戦後凱旋将軍のように迎えられることによってこの重大な総括を放棄したところに、戦後の運動の問題があった。戦後日共の指導する労働組合運動も基本的には戦前の運動の延長として開始された。

 

三、戦後労働組合運動における労戦統一

 

第二次世界大戦が終った翌日から帝国主義と社会主義、革命と反革命の対立と抗争は始まった。だからこそ反ファシズム闘争の勝利の経験から国際労働組合運動を統一して結成された世界労連は、平和擁護、民族解放、社会進歩をめざす国際労働運動の統一的な発展の重要な推進力となった。しかし一九四七年、アメリカ帝国主義は冷戦政策に移行すると同時に世界労連を分裂させ、国際自由労連の結成を鼓舞することによって統一的な労働運動の母体としての世界労連の力を弱めた。以後つい最

近まで世界は二つの対立する国際労働組合連合(インターナショナル・センター)が併存することになった。しかし初めは世界労連から、最近では双方から国際労働組合運動の統→行動について熱心な模索がつづけられている。労働者は国境を越えて統一してこそ自らの権利と利益をまもることができるからである。

しかし日本の戦後労働組合運動の再出発はそれとは違った形で始まった。すなわち予め統一を模索する努力にさほど時間をかけることなく、一九四六年八月には同時に、日本労働組合総同盟(総同盟八五万人)と全日本産業別労働組合会議(産別一八○万人)がそれぞれ再建、結成された。中心になったのは前者が旧総同盟系(社会党系)であり、後者が旧全協系(日共及び社会党左派、中間派)中心であった。それは戦前の連続に外ならなかった。運動は分裂から始まった。

戦後の戦闘的な労働組合運動のイニシアチーブをとったのは産別であった。それは殆んど日共とその活動家集団のヘゲモニーのもとに闘われた。それだけに社会党系や戦闘的無党派の活動家集団のなかではすでに早くから日共の引き廻しに対する批判がくすぶっていた。日共=産別の主要な指導方法は、労組の執行部を選挙を通じて多数派で占拠し、決定をタテに反対派を上から押えることでいっきょに党の指導方針で労組を牛耳ることにあった。しかしその最も頂点と見られた四六年の十月闘争から四七年の二・一ストにかけてすべての矛盾が集中した。GHQによるスト中止命令はあいつぐ闘争の連続でくりのべられていた組織内の矛盾を爆発させた。だがすでに長江を渡っていた中国革命軍の確かな展望は、アメリカ占領軍の政策を変えさせていた。彼等にとってすでに妥協できる限界を越えていた産別の闘争は禁止されるべき時期にきていた。

しかし二・→スト中止後の危機感はいっそう労働組合運動の統一的な結集を要求していた。すでに産別の呼びかけで組織されていた全国労働組合会議準備会は、四七年三月十日、全国労働組合連絡協議会(全労連)として結成された。そこには産別、総同盟をはじめ数のうえでは四四六万人(八四%)を組織する史上最大の労戦統一であった。しかし満場一致制で拒否権が認められ、自主権が重んじられることによって、実際上は左右にしばられて身動きできず、全労連としての統一的な行動は何一つできなかった。

それより重要な意味をもったのは、多くの活動家と集団・組合からの批判に応えた四七年五月の産別自己批判であった。それは細谷事務局次長を中心とした産別書記局細胞によって準備されたが、一旦は認めた党本部が後に拒否し、圧迫を加えたことによって複雑な過程をたどることになった。結局四八年二月には細谷らが産別民主化同盟を結成し、六月には総同盟が全労連から脱退した。産別は四九年全労連へ発展的解消という組織強化方針をとるがこの年八月、全労連は団規令による命令で解散させられた。結成されて以来僅か二年数ヵ月であった。

同年高野・細谷等はGHQのエーミス労働課長とともに国際自由労連の結成大会にオブザーバーとして出席した。この参加者が推進者となって全国労働組合統一準備会が結成され、つづいて五〇年三月には日本労働組合総評議会準備会がつくられ、七月には三七七万人の組合員を結集し、オブザーバーを含めて四四〇万人の統一労働組合が結成された(総評)。戦後二度目の労戦統一であった。これにはGHQ労働課長が労資の代表をそれぞれ司令部の別室に集めて総評結成を促がす一幕もあった。こうして反共主義と労資協調主義を旗印に総評は結成された。労働組合運動の指導権は産別から総評に移った。

第一回大会は反共を基調に、朝鮮戦争における国連軍(米軍)の行動を支持したが、「ニワトリ」が「アヒル」になるのには一年もかからなかった。五一年三月の第二同大会では、再軍備反対など平和四原則を決定して国際自由労連→括加盟を否決し、総同盟左派の高野事務局長を選出した。総同盟は左右に分裂し、右派三一万人は総評を脱退した。総評は六月には労働法規改悪反対闘争委員会(労闘)を組織し、阻止闘争に五〇〇万人を動員した。十月には破防法反対闘争を組織して三波のゼネストを闘い、五二年七月の第三同大会では左派社会党支持を決定した。ここから炭労、電産ストへの「四単産批判書」が提出され、民労協が生れて民労連となり、五三年ついに八五万人の組合員を率いて全日本労働組合会議が分岐し、やがて総同盟、全繊、海員などと同盟会議を結成したが、一九六四年総同盟が解散して結集体は同盟と名称を改め民社党と結ぶことになった。こうして産別の日共フラクションによる指導に替って、総評11社会党、同盟目民社党という新たな組合"政党ブロックが生れた。これで第二回目の労戦統一もついに完全に分裂した。五六年⊥ハ月の労働省調査によれば、当時の全国組織は総評=三四一万人、全労七八万人、新産別三万八千人、産別一万二千人であった。産別は五八年解散して遂次総評に参加したが、いま日共はこの時期の総評への「なだれ込み運動」を反省すべき課題だと自己批判している。それは統一労組懇との整合性をととのえるためであろう。

高野実をリーダーとした時期の総評は前記の闘いの後も反基地闘争、「ぐるみ」闘争などひきつづき戦闘的な闘いが目立った。しかし、国民闘争のリーダーとしての労働組合という従来の労組のワク組みを越えた高野のいささか過剰な民族闘争への思い入れは、賃金闘争の弱点を衝かれて太田=岩井ラインに敗れた。一方五五年から始まる太田=岩井ラインの企業連産別を主軸とする春闘は、定期昇給制を基礎とした賃金相場決定という構造的な様式を確立することによってその後の高成長を内側から支えることになった。それを定式化したのが、一九六〇年、太田、岩井、野々山、宝樹など総評の社会党系活動家集団の中心となった労働者同志会によって作成された"労働運動の前進のために"=「日本労働組合主義」の宣言であった。それは、「労働者の身近な要求をとらえて、これを基礎として組織的団結をはかることが最も大切」だとして経済闘争中心主義を標傍しつつ、「われわれは経済闘争を実現しようとすれば必ず民主的権利を確立する必要に迫られ、また政治的なカベを打破らねぽ達成できないのである。」ここに「ヨーロッパ等とは社会的条件の違いがあるのであって、基本要求の闘争を社会的要求の闘いで政治的闘争に発展させなければならない。」と表明している。こうして経済闘争=総評、政治闘争=社会党(左派)のブロックのもと、スト権を職場から中央に吸い上げて大企業労資交渉で賃金のワク組みをつくる毎春の闘いが始まった。それは資本蓄積を犯さない範囲でベース・アップ率を争うという資本への整合性において、やがて同盟との戦線統一を内在的に準備するものであった。

一九七〇年、宝樹の「労働戦線統一の提言」をきっかけに全民懇が結成され、総評は全的統一など「四原則」で応じたが、総評の積極的なイニアシチープは全く発揮されなかった。七二年労戦統一民間単産連絡会議(二二単産会議)が生れたが意見の不一致により破談となって第一次統一運動は失敗するが、十一月の公労協スト権ストの不成功の影響は大きかった。情勢分析と判断め甘さ、無成果に終ったスト打抜きの労働者に与えた挫折感は逆に政府、独占に自信を与え、忽ち二〇〇億円損害賠償の逆襲を受け、公労協の中心戦闘戦力の国労・動労に足かせとなった。ここから第二次統一運動が再燃し、中立労連が新産別といち早く総連合を結成して民間先行統一を提唱した。

そこで七九年の総評大会は即時全的統一論を降ろして民間先行を承認し労戦統一推進会を発足させることですでに統一のイニシアチーブは完全に総評を離れ、やがてJC=同盟による「基本構想」にたいし「五項目補強見解」という全く受動的な態度に終始して今旧に至った。

 

おわりにーわれわれは何を追求するのか

 

結局、戦後四〇年間、共産党と社会党、産別と総評も一貫した目的意識的な戦線統一のための積極的な努力はついになかったのである。戦後の分裂から出発し、短い時期に形だけの戦線統一はあったが、階級的な立場からの誠実で執拗な統一への働きかけも統一行動への呼びかけも残念ながら極めて弱かった。そうしていままた全民労連にたいする統一労組懇、さらに反連合・非統一労組懇を結集軸として全労協が結成されつつある。数のうえでは一桁つつ違う一二つのナショナル・センターが生れようとしている。この様相と構造の本質は戦前と同じなのか、変ったのか、情勢は変り条件は異っても労戦統一の考え方は少しも変っていないのではないか。

私は最初に「岩井提言」の二つの命題を前提とした。労資協調路線と階級的戦闘的路線の対立ということは資本主義のもとでは当り前のことであって、どちらか一つの路線になるということはあり得ない。重要なことは、当然にも絶えず生れる労資協調路線にたいして積極的に下からと上からの統一戦線によって共同行動を発展させるなかで階級的な運動の影響力をひろげつつ階級的再統一をめざすことなのである。

だが日本共産党に集中的に典型が示されているように、反ファシズム統一戦線や戦後国際労働運動の貴重な教訓は投げすてられ、われひとり高しとして他を批難することに終始している。そこには現状を変革しようとする積極的能動的な追求はなく、ただ自らが旗を守ることだけに追求をすりかえている。それは第二の命題からも生れるのだ。革命党、階級政党が労働組合を根拠地にするという思想はまず何よりも党と労働組合をその目的と性格に照らして明確に区別していない所から生れる。労働組合は階級闘争のための組織であるが労働者階級の党は階級権力を打倒するための革命闘争のための組織である。戦前の「ベルト論」が党と労働組合にどんなに損害を与えたことか。しかしもちろん、階級闘争の発展なくして革命闘争はなく、階級闘争は革命闘争によってこそ最終的に解放される。ここに革命闘争と階級闘争の、従ってまた党と労働組合の区別と関連の論理がある。いま日本の労働組合運動にとって中心ともなるべき重要な力は現に労働組合運動の推進力として闘っている階級的活動家諸集団である。彼等のなかには階級闘争と革命闘争が、党と労働組合が融け合い、区別と関連の論理が一つに結びあっているのではなかろうか。それは一つの時代をつくった七〇年闘争が生み落した遺産である。この人々を大衆から切り離してその影響力を弱めたり、ましてこの貴重な集団を敵の集中砲火にさらしてはならない。それこそ数は少なくとも今日の運動を変えてゆく重要な原動力なのだ。もし彼等のなかで区別と関連の論理があいまいになることがあるとすれぽ、それは彼等の責任ではなくてわれわれの、そうして革命的な党の責任であろう。

今日の革命的追求と党の魅力の弱さが変革を志す彼等を失望させているからだ。だからといって彼等を囲い込んで大衆から切り離してはならない。大衆のなかにこそ活動の源泉があるのだ。

われわれは、堕落した幹部に率いられた多くの労働者大衆と階級的な労働組合に参加している労働者大衆との間に資本によってつくられた境界の杭をひきぬくためにこそ努力しなければならないのだ。そのために下からだけでなく上からも統一戦線を追求しなければならない。それは日共の云うように苦しまぎれの「なだれ込み」ではなく、たとえ数は少なくとも確信をもつものだけにできる堂々たる「階級的なだれ」なのである。

どんな「会社派組合」も不変ではない。すべては変化するという唯物弁証法の確信のなかにこそわれわれの運動の明日がある。重要なことは、現実を認識するだけでなく現実を変えるために何をなすべきかと云うことなのだ。自らが正しいと自覚するだけでなく、いかにして他を変えるかということなのだ。このきびしい条件と情勢のなかでこそ、われわれはもう一度労働者大衆のなかに入って闘おう。

(一九八九・一・二七)

()「統一」という問題については、労働組合運動だけでなく日本の運動全体にかかわる問題なので、別途その思想的背景と合せて書くつもりである。

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